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【蜩/岡本千春】正しく心のままに生きていても報われない不条理な半生を痛切にえがく

岡本千春の蜩の書評

昔からヒグラシが好きで、晩夏や夕刻にあの鳴き声が聞こえてくると、なんとなく懐古的な気分になります。

偶然にも「蜩」のタイトルを見つけて、作者のことも全く知らない本でしたがつい手に取り読んでみました。

愛媛県の山間に囲まれた内子町では、内子弁で会話がされるので最初はちょっと読みづらいです。ところどころ標準語の補足があるので、慣れてくると世界観に入り込みやすい小説だと思えます。

たぶんあまり有名な本ではないのですが、これは読んでよかった小説でした。読みながら話の先を予測しても、常に裏切っていくことを徹底して話を重たくしてきます。

主人公がどれだけ不幸な展開に追い込まれても、何度も気を奮い、立ち直る姿には勇気をもらえると思います。

蜩 /岡本千春【著】
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作者岡本千春
出版社幻冬舎ルネッサンス
初版2008年9月25日

あらすじ

舞台は大正後期の愛媛県内子町。

櫨(ハゼ)の実を加工して木蝋の製造を営む江良家は、櫨蝋の主要産地でも群を抜いた商家だった。本江良と、分家した上江良の2つの商家を巡る相続問題に巻き込まれた17歳の少女、美咲が自分の望む人生を諦め江良家に身を捧げる運命に葛藤する物語。

美咲は自分が一人の娘ではなく、本江良の娘としてしか周囲に認められないことに嫌気がさしていた。そんな折に密かに思いを寄せる青年、孝之が早稲田大学から帰省して美咲に言った。

「東京では女も一人で立派に社会に進出している」

東京に行けば家のしがらみから解放される。自分が「本江良の娘」ではなく一人の女として認められ、孝之とも一緒に過ごせると信じていた。

しかし同時期に本家から嫁にいった上江良の美津が死んだことで美咲の人生は急転。上江良の頭領は本江良の先代が養子として迎えた人間なので、上江良の家督である美津が亡くなったいま、新しくよその嫁をもらうと本江良と上江良の財産は完全に分断されることになる。

代々続く本江良で最も発言権のある祖母のキツは、本家筋である美咲を上江良に嫁入りさせることを提案した。

美咲は抵抗するも空しく、結局上江良の頭領である50歳も手前の喜輔と結婚させられた。東京行きへの希望をなくしたものの、真面目な性格の美咲は上江良に嫁いだ限り、そこで自身の役割をまっとうしようと奮闘する。

上江良での生活は決して楽なものではなかった。嫁として喜輔とどう付き合うか、上江良のごりょうさんとしてどう立ち回るか。まだ若い美咲にとって苦難の連続だ。

ついには上江良から逃げ、内子町を出ていこうとするも、その魂胆は何度も失敗に終わる。まるで江良家の呪いに縛り付けられているかのように。

喜輔との間に上江良の後継ぎとなる息子も生まれ、もう子供のためにも上江良に身を尽くす覚悟を決めるしかなかった。

月日は流れ大正12年、東京で「関東大震災」が起こる。愛媛の山奥である内子町でも紙面に取り上げられ話題になった。

東京にはかつて美咲に東京生活の夢を見せてくれた孝之がいる。心配になった美咲は東京へ行く決心を固め、夫の喜輔に手紙を書き残して東京へ向かう。

東京で孝之の安否は確認できなかったが、伝言板に連絡を請う旨を書き終え内子町に帰った。

しかし上江良に戻るも手紙が意図せず喜輔に回っていなかったことで、駆け落ちと思われ籍を外されていた。

あてがなくなった美咲は子供を連れて、かつての東京へのきらきらした気持ちではなく、皮肉にも重たい気持ちを引きずり念願の東京に居を移す。

何事にも真面目で一生懸命な彼女は、東京の生活に馴染んで束の間の幸せを噛みしめるように生きた。しかし最後にはやはり江良家の呪いが美咲を絡めて引き戻すように、過酷な結末となってしまった。

蜩 /岡本千春【著】
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書評:なにか生きづらさを感じる女性にこそ読んでほしい

岡本千春の蜩

※この先、本のネタバレ含みます。

一見、順風満帆に見えるような江良家を巡って、欲と自己愛をむき出しにした様々な人間模様が交錯しています。

特に女の強さと、男の弱さを如実に表現しているような作品です。この物語に気概があって頼れるような男は一人も存在しません。

女として生きていく役回りを受け入れる強さ、時には逃げ出す勇気、人を出し抜き狡猾ながらも賢く、そして誰かに寄り添える優しい強さ。この4パターンの女性が見事に描写されていると感じました。

現代では男の役割・女の役割といった垣根や固定観念がフラットになって、作中の時代よりはずっと生きやすくなってるでしょう。それでも深く根付いた意識、動物としての本能的なものもあってか、男と女のジェンダー的な隔たりが完全になくなることはまずありません。

だから、この本はこれから強く生きようと思う女性にどこか響く部分を感じとれるのではと思うのです。

美咲の生きざま

本をめくった序盤、美咲はとても生き生きと純粋で、本当にどこにでもいるような少女でした。

家柄事情に絡めとられてからはまさに苦難の日々。妻として、上江良の若奥さんとして、世の中の不条理や男女の妄りがましい現実を目の当たりにしていきます。

それでも子供ができてからの彼女は本当に強かった。この子のためならと、周囲の不徳に耐え立ちなおす場面がいくつも見られました。

美咲はずっと正しく生きることに徹していました。誰かの不徳を発見したら目をふせずに、正面からぶつかっていきます。心の中に何か悪いことが浮かんでも、結局それを決行することなく常に誠実だったのです。

そんな人柄が報われて、最後は東京で孝之と生活をともにし、ようやく幸せな家庭を築けると思ったのも束の間。再びもと旦那の喜輔が「実は籍が抜かれていない」と言って、美咲を内子に連れ戻してしまいます。

正しく生きることがすなわち幸せに近づける堅実な道ではないのか。我々の常識的な道徳観を疑わざるをえない、そんな最後となってしまいました。

菊乃の生きざま

菊乃は本江良の若奥さんであり美咲の母です。美咲の東京への憧れの唯一の理解者であったものの、美咲が上江良に嫁ぐ話を止められませんでした。

その後も美咲を何かと気に掛けるシーンがあります。最初は美咲の結婚式中に200円(当時は大金)を「いつかのために」と密かに握らせます。これは察するにすぐにでも逃げなさいというサインだったと思いますが、美咲は真面目さゆえにその最初のチャンスを逃します。

美咲が子を産んでからもう一度、美咲に発破をかけるシーンがありました。

辛抱のぼうは我が身を支える棒や。その棒が自分を支えられんごとなったら、我慢することなんかなかで。さっさと引っこ抜いて違う辛抱に差し替えたらええがで。

蜩/岡本千春:単行本78頁

この言葉は確かに美咲のために掛けられた本心だと思います。と同時に、これは菊乃自身の決心でもあったのです。

菊乃も本心では江良の家柄から解放され、自由に生きたいと思っていました。実は孝之と恋人関係にあって、ついに東京へと駆け落ちするのでした。

正直これには展開としてとても驚きました。ずっと美咲の背中を押してると思っていたのが、自分のための言葉でもあったとは。だからこそ美咲の東京に行きたい思いも理解できたのかもしれませんけど。

てっきり美咲より先に東京へ行くことで、後に続くよう暗に伝えているのだと思っていました。それくらい菊乃という人は真面目で、本江良や商売関係者たちの信頼があり、駆け落ちをするような人物像には見えなかったのです。

後に関東大震災に被災し「子供を捨てて逃げてきた天罰だ」そう言って命を落としました。

菊乃が東京に逃げてからの描写はほぼなかったので、彼女が幸せだったのかは分かりません。家のしがらみを抜け愛する人のもとへこれた一方、子を見捨てて自分だけ東京に来てしまった罪悪感もつきまとっていたと思われます。

これを勇気ある逃げと言うか、愚かな逃げと言うか意見が分かれそうです。

僕は前者のほうだと思っていて、それは後に述べる”蜩”というタイトルにつながる部分があると思うからです。

女子衆頭ナカのずるさ

上江良で下働きをする女子衆をとりまとめるナカ。美咲の身に降りかかる苦難の元凶ともいえる物語のキーマンです。

それはまあ図太く、せこく、賢い立ち回りで、一番得して生きているようなやつです。

上江良の女子衆たちの給料を中抜きして、その金で美咲の夫である喜輔と内々の関係にあったこと。最後は上江良の財産を根こそぎかっさらって消えました。

とくにナカが機転を利かせたのが、美咲が震災直後の東京から内子に戻ってきたときに、すでに籍を抜いて自分が喜輔と夫婦になる嘘を通したこと。これが後になって最後の最後まで美咲を不幸に引きずり込むのでした。

作中でナカだけがなにも失っていません。そんな不条理がまかり通ってしまう世の中を体現しているかのような人物でした。

優しく寄り添える芙蓉

最後は作中では地味な存在ですが、非常に大切なポジションにいた芙蓉。東京から愛媛の山奥内子町に移住して、美容院を営んでいました。

美咲との関係は子供のころから髪をいつも切ってあげていた程度。しかし菊乃が内子を逃げてから芙蓉はずっと美咲の味方でいました。まるで母親のかわりになるように。

震災後の東京行きは美咲と同行し、上江良から追い出された美咲に東京の仕事を紹介したのも芙蓉でした。

芙蓉が東京と愛媛を行ったり来たりするのは、元旦那との子供の親権争いのため。さらに震災で修行をしていたころの仕事仲間たちも失っています。美咲の不幸な境遇と時を同じくして、彼女もとても苦労していた頃なのです。

それでも美咲を気にかけサポートし、励ましてくれる姿に真の強さが見えます。自分のことでいっぱいにならず、他人に手を差し伸べられる器量ですね。

蜩 /岡本千春【著】
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頼りなき男たち

本江良の後継ぎ息子であり美咲の父、宗一郎も自身の生きる道に辛さを抱えていました。

宗一郎の父と母が拓いた立派な製蝋業でなに不自由ないように見えても、そこに本人の意思はありません。すべて親の敷いたレールに乗せられ、男としてのプライドが失われていました

そして娘である美咲を上江良によこすことになっても、それに反対して味方をしてあげる強さも見せられなかった不甲斐なさ。

妻の菊乃に逃げられ、芝居小屋の内子座により一層入りびたるようになり、ついに女役者と心中未遂をします。病院で美咲が見舞いに行くと一言。

娘はどこまでいったかて娘や。ありがたいな。けんど他人様が言うのはそうや。みーんな面白おかしに噂するもんやで。

蜩/岡本千春:単行本140頁

自分の不甲斐なさを自覚してはいるが、たいして事情も知らない他人に話のネタにされる怒り(プライド)が見える瞬間です。男は本当にこういうところあります、わかります。

そしてもう家のために我慢する時代じゃないと伝えました。

喜輔もほとんど同様、もともと役所勤めで商売のことを何も知らないがために、上江良の養子に迎えられたものの居場所がありませんでした。上江良の頭領でありながら役立たずな劣等感で堕ちていきます。

孝之は美咲の結婚式のときの、彼女の助けてほしいサインに気が付きませんでした。東京での生活が叶った美咲が連れ戻されるときも、孝之はかばってはくれなかった。

惜しむらくは、東京駅のホームまで美咲を探しに駆けつけるのがあと一歩遅かったことでした。

時代と並行して最盛から衰退するヒューマンストーリー

正直最初は読み進めるのが辛くて、何度も本を閉じたくなります。美咲がさっさと逃げ出してくれないもどかしさもずっと引っかかっていました。

田舎町の世間の狭さ、付き合いごと、家柄を背負っていく宿命、なにもかもが閉鎖的でどこか息苦しさのようなものを感じます

結構暗くて、重たい内容の本ですね。

さて、蜩というタイトルがどこで回収されるのか。読み進めているうちにだんだんと分かってきて、最後には時代の変わり目の象徴として表現されました。

晩夏に哀しく鳴き始める蜩。

土の中から羽化するまでに時間をかける蝉は、まるで家の看板を背負って長らく耐えてきた若奥さんとしての菊乃。夏の一瞬を羽ばたき精一杯に鳴く蝉は、東京まで愛する人を追った菊乃。そうして秋に散っていく潔い生き様を重ねていたのです。

そして大正末期は電気が普及していき、製蝋業者も姿を消していきました。木蝋でパッと財を築いたものの、それも時代の変わり目に散っていったのです。

最後には新たな時代の息吹として昭和の訪れと、美咲の子供が立派な道を拓いてくれるだろうと、未来への展望を重ねるかのような結末でした。

蜩 /岡本千春【著】
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